弁道話講義⑳

正法眼蔵随聞記 4-12】
示して云く、世間の人多分云く、學道のこヽろざしあれども世は末世なり、人は下劣なり、如法の修行にはたゆべからず、只隨分にやすきにつきて結縁を思ひ、他生に開悟を期すべしと。今ま云ふ、此の言は全く非なり。佛敎に正像末を立ること暫く一途の方便なり。在世の比丘必ずしも皆すぐれたるにあらず。不可思議に希有にあさましく下根なるもありき。故に佛け種々の戒法等をまふけ玉ふこと、皆わるき衆生下根の爲なり。人人皆な佛法の器なり。かならず非器なりと思ふことなかれ。依行せば必ず證を得べきなり。既に心あれば善惡を分別しつべし。手あり足あり合掌歩行にかけたる事あるべからず。しかあれば佛法を行ずるには器をえらぶべきにあらず。人界の生は皆な是れ器量なり。餘の畜生等の生にてはかなふべからず。學道の人只明日を期することなかれ。今日今時ばかり佛法に隨て行じゆくべきなり。

(第十七問答)
 とふていはく、乾唐(ケンタウ)の古今をきくに、あるひはたけのこのこゑをききて道をさとり、あるひははなのいろをみてこころをあきらむるものもあり。
いはんや釋迦大師は、明星をみしとき道を證し、阿難尊者は刹竿のたふれしところに法をあきらめしのみならず、六代よりのち五家のあひだに、一言半句のしたに、心地をあきらむるものおほし。
かれらかならずしもかつて坐禪辨道せるもののみならんや。

 しめしていはく、古今に見色明心し、聞聲悟道せし當人、ともに辨道に擬議量なく、直下に第二人なきことをしるべし。

(第十八問答)
 とふていはく、西天および神丹國は、人もとより質直なり。中華のしからしむるによりて、佛法を敎化するにいとはやく會入す。我朝はむかしより人に仁智すくなくして、正種つもりがたし、番夷のしからしむるうらみざらんや。
又このくにの出家人は大國の在家人にもおとれり。擧世おろかにして心量狹少なり。ふかく有爲の功を執して、事相の善をこのむ。かくのごとくのやから、たとひ坐禪すといふともたちまちに佛法を證得せんや。

 しめしていはく、いふがごとし。わがくにの人いまだ仁智あまねからず、人また迂曲なり。たとひ正直の法をしめすとも、甘露かへりて毒となりぬべし。名利にはおもむきやすく、惑執とらけがたし、しかはあれども佛法に證入すること、かならずしも人天の世智をもて出世の舟航とするにはあらず。
佛在世にもてまりによりて四果を證し、袈裟をかけて大道をあきらめし、ともに愚暗のやから、癡狂の畜類なり。ただし正信のたすくるところ、まどひをはなるるみちあり。また癡老の比丘默坐せしをみて、説齋の信女さとりをひらきし。これ智によらず、文によらず、ことばをまたず、かたりをまたず、ただしこれ正信にたすけられたり。
また釋敎の三千界にひろまること、わづかに二千餘年の前後なり。刹土のしなじななる、かならずしも仁智のくににあらず。人またかならずしも利智聰明のみあらんや。しかあれども如來の正法、もとより不思議の大功德力をそなへて、ときいたればその刹土にひろまる。
人まさに正信修行すれば、利鈍をわかず、ひとしく得道するなり。わが朝は、仁智のくににあらず、人に知解おろかなりとして、佛法を會すべからずとおもふことなかれ。いはんや人みな般若の正種ゆたかなり。ただ承當することまれに、受用することいまだしきならし。

さきの問答往來し、賓主相交することみだりがはし。いくばくかはななきそらにはなをなさしむる。しかあれどもこのくに坐禪辨道におきて、いまだその宗旨つたはれず。しらんとこころざさんもの、かなしむべし。このゆゑにいささか異域の見聞をあつめ、明師の眞訣をしるしとどめて、參學のねがはんにきこえんとす。このほか叢林の規範、および寺院の格式、いましめすにいとまあらず。又草草にすべからず。
おほよそ我朝は龍海の以東にところして、雲煙はるかなれども、欽明用明の前後より、秋方の佛法東漸する、すなはち人のさひはひなり。しかあるを名相事縁しげくみだれて、修行のところにわづらふ。
いまは破衣綴盂(ハエトツウ)を生涯として、靑巖白石のほとりに茅(チガヤ)をむすんで、端坐修練するに、佛向上の事たちまちあらはれて、一生參學の大事、すみやかに究竟するものなり。これすなはち龍牙の誡勅なり。雞足の遺風なり。
その坐禪の儀則は、すぎぬる嘉祿のころ撰集せし普勸坐禪儀に依行すべし。それ佛法を國中に弘通すること、王勅(ちょく)をまつべしといへども、ふたたび靈山の遺屬をおもへば、いま百萬億刹に現出せる、王公相將、みなともにかたじけなく佛勅をうけて夙生(シユクシヤウ)に佛法を護持する素懐(そかい)をわすれず、生來せるものなり。その化をしくさかひ、いづれのところか、佛國土にあらざらん。このゆゑに佛祖の道を流通せん、かならずしもところをえらび、縁をまつべきにあらず。
ただけふをはじめとおもはんや。
しかあればすなはちこれをあつめて、佛法をねがはん哲匠、あはせて道をとぶらひ雲遊萍寄せん參學の眞流にのこす。
ときに、
 寬喜辛卯(かのとう)中秋日   入宋傳法沙門道元