オンライン坐禅会&勉強会「普勧坐禅儀」(3)

『普勧坐禅儀』勉強会 第三回 の資料
夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善 悪(ぜんなく)を思はず、是非を管すること莫(なか)れ。心意識の運転を停(や)め、念想観の測量 (しきりょう)を止(や)めて、作仏を(と)図ること莫(なか)れ。豈に坐臥に拘(かか)はらん や。

試訳

坐禅を行うのは静かなところがよい。飲食は満腹や空腹を避けた方が良い。
何かを考えることを手放し、やってることすべてを一旦お休みしよう。善について考えず、悪について考 えず、何かが正しいとか、間違いだとかいうことについて考えない。注意、思考、識別などをコントロー ルしようとせず、追うこともやめ、もちろん悟りを開こうなどとも思わずに坐るのだ。
これは坐るとか臥すとかいう姿勢には関わらず、仏道の大切な前提だ。
考え 諸縁を放捨し~、善悪を思はず~、心意識の運転を停め~、は同じことの言い換えではないか


1. 諸縁を放捨し=善悪を思はず=念想観の測量を止め
• 諸縁=六根(眼耳鼻舌身意)に現れるものすべて
• 念・想・観は、意に現れるもの
• 無方老師の例えでは、羊のことだろう
坐禅の場合は主に思いとか、痛みとか痒みとかだと思う
• 放捨=測量をやめる=手放す
• これは善い、これは悪いと考えない
• 全く何も考えないという意味ではない
• 考え自体は勝手に色々現れるから、消すことはできない
• 消せたとして、意味はあるだろうか?
• 現れた考えに善悪のラベルを付けないということではないか
• 羊を白黒で分けたりしない


2. 万事を休息して=是非を管すること莫れ=心意識の運転を停め
• 万事=全ての用事、意志や行為的なものを表すのではないか
• 心・意・識は心の働き、出力
• 休息=運転を停め=コントロールしない。羊飼いをやらない
• 正しい、正しくない状態と考えないので、直す必要はない
• 車の運転に例えてみる
• 止めようと努力する(ブレーキ)
• 良い考えをしようとする(アクセル)
• 考えに流される(ハンドルを取られる)
• 寝てしまう(逆側にハンドルを取られる)
• 景色が流れるままにして、ハンドルだけはまっすぐに保つ


莫図作仏
南獄磨甎の話
南嶽「お前はちかごろ何をしておるか」
馬祖「只管打坐するのみです」
南嶽「坐禅して何をするのだ」
馬祖「作仏のためです」
ーーすると南嶽は一片の塼を持ってきて、そばの石にあてて磨き始めた。
馬祖「和尚、何をなさっているのですか」
南嶽「塼を磨いておる」
馬祖「塼を磨いて何をなさろうというのです」
南嶽「磨いて鏡にする」
馬祖「塼を磨いて、どうして鏡とすることができますか」
南嶽「坐禅して、どうして作仏することができようか」


• 普勧坐禅儀では作仏を図るなという
坐禅をすることが目的のための手段に成り下がる。(大西さん)
坐禅とさとりの関係は「坐禅->さとり」という繋がりではない
• 南獄磨甎は正法眼蔵『古鏡』『坐禅箴』にも登場する
坐禅かならず図作仏なり。坐禅かならず作仏の図なり。(『坐禅箴』)
坐禅をしている様子がそのままさとりの様子である
• 作仏を目的としないからこそ理法が現成する
• では何が目的か?


いまの人も、いまの塼を拈じ磨してこゝろみるべし、さだめて鏡とならん。
塼もし鏡とならずは、人はほとけになるべからず。
塼を泥団(でいとん)なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。
人もし心(しん)あらば、塼も心あるべきなり。
たれかしらん、塼来塼現の鏡子(きんす)あることを。
又たれかしらん、鏡来鏡現(きんらいきんげん)。(『古鏡』)


• 塼を磨けば(坐禅をすれば)、必ず鏡(仏)になるという
• 塼は磨いても塼である。坐禅をしてもやはり凡夫は凡夫である。
• もしかして塼を磨けば、塼でなくて磨が鏡になるのではないか?
• 塼が来れば塼を映す鏡がある。
• 凡夫である自分に気づくことができる、気づこうとする心の働き、それが仏ということだと思う
• その心で世界を見たらどうなるだろう
• もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印と なり、尽虚空ことごとくさとりとなる。(弁童話)
 豈に坐臥に拘はらんや
• 流布本で追加
• 若學坐佛、佛非定相(若し坐佛を學せば、佛は定相に非ず)(『坐禅箴』)
• この心得は坐禅の時だけ気をつけるのではなく、日常生活の全てにおいて気をつけるべきことという 意味だろうか
• それなら坐らなくてもいいというのはだめ(『坐禅箴』)


尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を(と)敷き、上に蒲団を用ふ。或(あるい)は結跏 趺坐、或は半跏趺坐。謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右 の腿(もも)の上に安ず。半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の腿(もも)を圧(お)すなり。寛 (ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の 上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、 面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。

試訳

一般的に、座布団などの厚い敷物を敷き、その上に坐蒲をのせる。
坐り方には結跏趺坐と半跏趺坐がある。
結跏趺坐とは、まず右足を左の腿の上にのせ、つぎに左足を右の腿の上にのせる形をいう。
半跏趺坐とは、左足を右の腿の上にのせるだけの形をいう。
服装はゆったりとした服を選び、きちんと整えること。
足を組んだら、次に右手を左足の上におき、その上に左手をのせる。そして両手の親指の先を、向き合 わせて支えあうようにする。
考え 尋常、と言っているので、おそらく座り方の一例なのだと思う。足の組み方の順序が逆ではいけない とかは書いていない。良くないのは坐禅中に色々変更することではないか。安楽座で始めたなら、最 後まで安楽座でいると決めた方が心も安定する。


法界定印以外の手の組み方
白隠流(臨済宗で行われることがある)左手の親指を右手でにぎり、その左手を右手でにぎる
• ヨガみたいに人差し指と親指で輪を作り、両膝に乗せる
• やってみると法界定印より身体が冷える感じ

乃(すなわ)ち、正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐ ま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。 舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。鼻息(び そく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(よう しん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底 (ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。

試訳

身を正してきちんと座り、姿勢は左右や前後に傾いてはいけない。両耳と両肩が、鼻とへそが垂直線上 に揃うようにする。下は上顎につけ、くちびるも歯も合わせる。目は必ず常に開いていること。
呼吸は鼻呼吸、次第に静かになってくる。姿勢も整ってくる。そうしたら一度大きく息を吐き出し、左右 に体を揺らして体を安定させる。そしてどっしりと動かずに坐り、思いの届かない底にあるもの、そこに 心を向けなさい。思いのないところをどうやって思うのか?思いを手放して、直接体験してみることだ。 これが坐禅の要である。

考え 箇の不思量底を思量せよ
• 元は薬山禅師の話、『坐禅箴』にもやはり出てくる
• 思量
• 分別知、通常の思考
• 自分からするものに見える
• 不思量底
• 底=状態
• 意思の以前に起こってくるもの、見る、体験する
• 思考・概念を通して理解する前の経験
• 思量の発生前なので、思量は届かない
• 自己の真面目、遍法界、尽虚空、色々に表現される
• 非思量
• 不思量底を体験する唯一の方法
• 無分別智、純粋経験とも呼ばれる
• なりきる、と表現されたり、パン!と手を叩いたりする
• 思考・概念を通して理解するのを通さない必要がある
• 見れば見たまま、聞けば聞いたまま、思えば思うたまま(原田祖岳老師)
• たぶん、不思量底と二つに分けられるものではない

問い

念起即覺。覺之即失。久久忘縁自成一片。はなぜ削除されたのか?
• 念起即覺
• 今ここに起こっていることに気づくのが坐禅ではないのか?
• 思いの生滅を追って観察するのでは、不思量底に触れるひまがない
• 覺之即失
• 念が消えるのは目標ではない。
• リラックスとかはあくまで副作用で、追うべきものではない
• 久久忘縁自成一片
• 梵我一如、ワンネスみたいなイメージがある
• イメージを持って、それになるように努力するのを避けたいのではないか
• 一定の体験をするのをさとりと呼びたくないのではないか
道元禅師自身は中国でその体験をしたはずだが、それをゴールにして欲しくないのでは
なぜ細かいやり方や、理由などを書かないのか?
• 書いてあっても、最終的には自分でやって発見しなければならないことである
• 普勧坐禅儀は道元禅師からのインストラクションではなく公案、挑戦状なのではないか
道元禅師自身の回答は例えば正法眼蔵坐禅箴に書かれている
• 我々の回答は自分で見つける