典座教訓講義②

2021年8月25日「典座教訓」②

 

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   觀音導利興聖寶林禪寺比丘道元

佛家に本より六知事有り、共に佛子たり、同じく佛事を作す。中就なかんずく、典座の一職は、是れ衆僧の辨食を掌つかさどる。『禪苑清規ぜんねんしんぎ』に云く、「衆僧を供養す、故に典座有り」と。

いにしえより道心の師僧、發心の高士、充て來るの職なり。蓋し、一色いっしきの辨道に猶る歟。若し道心なき者は徒らに辛苦を勞して、畢竟、益無し。

『禪苑清規』に云く、「須く道心を運めぐらし時に随つて改變し、大衆をして受用安樂ならしむべし」と。昔日そのかみ潙山いさん、洞山とうざん等、之れを勤め、其の餘の諸大祖師も、曾て經來れり。所以に世俗の食厨子じきずし、及び饌夫せんぷ等に同じからざる者か。

山僧、在宋の時、暇日、前資勤舊ぜんしごんきゅう等に咨問するに、彼等聊いささか見聞を擧し、以て山僧が爲に説く。此の説似は、古來有道の佛祖の遺す所の骨隨なり。大抵、須く『禪苑清規』を熟見すべし。然る後、須く勤舊子細の説を聞くべし。

所謂、當職は一日夜を經て、先ず齋時罷さいじはに、都寺つうす、監寺かんす等の邊に就て、翌日の齋粥の物料を打す。所謂、米菜等なり。打得し了おわりて、之を護惜すること眼睛がんぜいの如くせよ。保寧ほねいの勇ゆう禪師曰く、「眼睛なる常住物を護惜せよ」と。 之を敬重すること御饌草料ぎょせんそうりょうの如く、生物熟物、倶に此の意を存せよ。

次に諸知事、庫堂に在て商量すは、明日甚なんの味を喫し、甚の菜を喫し、甚の粥等を設くと。『禪苑清規』に云く、「物料並に齋粥の味敷を打す如きは、竝に預先まづ庫司くす知事と商量せよ」と。 所謂、知事には都寺、監寺、副寺ふうす、維那いのう、典座、直歳しっすいあり。味敷を議定し了りて、方丈衆寮しゅりょう等に嚴浄牌ごんじょうはいを書呈せよ。

然る後、明朝の粥を設辨す。米を淘り菜等を調へ、自らの手にて親しく見、精勤誠心にして作せ。一念も踈怠緩慢にし、一事を管看かんかんし、一事をも管看すべからず。功徳海中に一滴も也た譲ること莫く、善根ぜんごん山上、一塵も亦た積む可きか。

『禪苑清規』に云く、「六味精せず、三徳給せずば、典座の衆に奉する所以ゆえんに非ず」と。先づ米を看て便ち砂を看る。先づ砂を看て便ち米を看る。審細に看來り看去りて、放心すべからず。自然に三徳圓滿し、六味倶に備る。

雪峰せっぽう、洞山に在りて典座と作る。一日、米を淘る次で、洞山問ふ。

「砂を淘り去りて米か、米を淘り去りて砂か」。

峰云く、「砂米一時に去る」。

洞山云く、「大衆、箇の什麼をか喫す」。

峰、盆を覆却ふくきゃくす。

山云く、「子、佗後、別に人に見まみえ去ること在らん」と。

上古有道の高士、手して自ら精し至り、之れを修すこと此の如し。後來の晩進、之れを怠慢すべきや。

先來云ふ、「典座は絆ばんを以て道心となす」と。米砂誤りて淘り去ること有るが如きは、自ら手して檢點す。

 

右、菩提心は、多名一心なり。竜樹祖師の曰く、唯、世間の生滅無常を観ずるの心も亦菩提心と名(付)くと。

然(しか)れば乃(すなわ)ち暫くこの心に依つて、菩提心と為すべきものか。

誠に其れ無常を観ずるの時、吾我の心生ぜず、名利(みょうり)の念起こらず、時光の太(はなは)だ速やかなることを恐怖(くふ)す、所以(ゆえ)に行道は頭燃(ずねん)を救う。『学道用心集』

 

一 道心ありて名利をなげすてんひといるべし。いたづらにまことなからんものいるべからず。あやまりていれりとも、かんがへていだすべし。しるべし道心ひそかにをこれば、名利たちどころに解脱するものなり。 『重雲堂式』

 

佛道をもとむるには、まづ道心をさきとすべし。道心のありやう、しれる人まれなり。あきらかにしれらん人に問ふべし。よの人は道心ありといへども、まことには道心なき人あり。まことに道心ありて、人にしられざる人あり。かくのごとく、ありなししりがたし。

又、つねにけさをかけて坐禪すべし。坐禪は三界の法にあらず、佛祖の法なり。『正法眼蔵・道心』

 

釈迦牟尼仏(のたまわ)く、明星出現時(みょうじょうしゅつげんじ)、我与大地有情(がよだいちうじよう)、同時成道(どうじじょうどう)。しかあれば、発心修行(ほっしんしゅぎょう)、菩提涅槃(ぼだいねはん)は、同時の発心修行、菩提涅槃なるべし。これ発阿耨多羅三藐三菩提なり。一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくのごとし。千億人の発心は、一発心の発なり。一発心は千億の発心なり、修証転法もまたかくのごとし。坐禅辨道これ発菩提心なり。発心は一異にあらず、坐禅は一異にあらず、再三にあらず、処分にあらず。『正法眼蔵・発無上心』

 

佛祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して斷絶せず、發心、修行、菩提、涅槃、しばらくの間隙(かんげき)あらず、行持道環なり。このゆゑに、みづからの強爲(ごううい)にあらず、他の強爲にあらず、不曾染汚(ふぞうぜんな)の行持なり。この行持の功徳、われを保任し、他を保任す。                    『正法眼蔵・行持』

 

おほよそ、心三種あり。一つには質多心(しったしん)、此の方に慮知心と称す。

二つには汗栗多心(かりたしん)、此の方に草木心と称す。

三つには矣栗多心(いりたしん)、此の方に積聚精要心(しゃくじゅうせいよう)と称す。

このなかに、菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。

菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。『正法眼蔵・発菩提心